備忘録

真言宗では毘盧遮那仏の説法を本地身説法とする古義と加持身説法とする新義がありますが。
仏道ということを踏まえれば、覚鑁がいうように加持身説法とすることをわたしは支持します。
しかし天台宗の法華円教をもって密教まで総括してしまうのはやはり無理があって、あくまでも法華経は仏法を示した経であるとするべきでしょう。
そうするとポイントとなるのはやはり華厳のあつかいです。
海印三昧は華厳の境界ですのでそこではじめて、仏法をこえて仏道を成すことに入ったといってよいでしょう。
わたしとしては、ここにまできたものをもって、仏道における無上正等正覚を成したとして良いと思っています。
なぜなら、仏道で大切なことは法界に対する正しい理解であり、そこは仏道が現れたる所以を真に成したところだからです。
ではなぜ、華厳経において語り手はあくまでも菩薩であり、如来や仏が語り手でないのか。
さらになぜさらに密教があるのか。
それは仏道のテーマはあくまでもすべてをさとらしめることであり、それはこの現世である自然霊界をこの世を造けいする霊道につなぎきることであり、いまだそれがすべてにおいて成されていない状態であることを示しています。
では、なぜ釈尊をして仏とするのか。
ここに仏道が現れた鍵があります。
釈尊自身は、華厳の境界を通りさらに霊道にまで至りました。
この時点においては、まだ仏道は開かれていません。
霊道にまで至った釈尊に梵天が勧請することによって、はじめて仏道がこの世に開かれたのです。
と、いう何のこっちゃという話ですが。
実際はそこまで至った釈尊がこの現世の存在そのものを感じ取り(この時点で釈尊はこの現世に生身をもって存在しているのですから当たり前ですが)、
これをなんとかしなければと思ったというのが真相でしょう。
つまり梵天とはこの現世のありようそのものであり、それをいかに霊道において受け止めるのか。
そこが華厳の境であり、普賢菩薩の境界でもあります。
ただ、いまだそれがすべてにおいて成されていない状態であるので、菩薩とするのです。
そして毘盧遮那仏や釈迦仏を仏とするのは、本来は霊道の存在であるものが、この現世を霊道につなぐためにあらわれたことをあらわします。
つまり、仏と表現するときには仏道が現れたる所以を、そして菩薩と表現するときにはその仏道がいまだすべてにおいて成されていないことを示します。
つまり成仏するだけでは、不十分であり、最終的には仏という存在なしに、霊と自然霊が完全に合わなくてはならないことを示しています。
そのことを示しているのが毘盧遮那仏であり、さらにその先のありようを示しているのが、
チベット密教の無上瑜伽タントラの中央に描かれるアシュクや上にあった法身普賢であり、それが女性と対面してるのは描かれるのは、この地=この現世と完全に合うことを示しています。
憤怒の形相で描かれるのは、仏道においてはいまだそれが成就されていないことを表しています。
ではそれなのにそれが仏道において説かれることが可能なのは、文殊菩薩が関係しています。
文殊菩薩は一般には智慧を司るとされていますが、わたしの見解では、正確には誓願を司っています。
華厳経で普賢菩薩の後に文殊菩薩が現れて様々な菩薩の境をきくのは、それぞれが司っているさまざまな果たすべきことを預かっているためです。
そのいずれ果たされる誓願を以って、華厳の境界において仏道を示してるのです。
つまり、仏道がすべて果たされた時には仏道そのものがなくなるのです。
更にその誓願さえ持つことの意味がわからないもののために、法華経において、その誓願の持つ意味を説く無量義処三昧に入って仏法を示しているのです。

ここまで書いてええんか、と思わないではないですが。
これをどのように受け取るかは、読む人にゆだねます。












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