備忘録

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たぶん、仏教者からはこういうことをいうと反発に合うことを承知で書きますが。
真の霊道は仏道よりも格は上ですよ。
格が下だととらえるのは、精霊と霊とを取り違えているからであって(精霊は仏よりも格は下)、まあ真に法界体性智を得た上でなければ、このことの真義の入り口に立つことはできないでしょう。
仏法にとって大切なことは、空性に対する正しい理解です。
仏道にとって大切なことは、法界に対する正しい理解です。
そして法界に対する正しい理解があった上で、はじめて世界がどのように成り立っているのか、真の理解の入り口に立つことができるでしょう。
三昧は法を体得していくには、大切なことですが、それは根幹ではありません。
真に大切なことは、真に志を立てることです。
仏道においては、どのような誓願を立てるか、ということです。
ただ、仏道においては、すべてをさとらしめるというところにいきつくのですが。
ここで誤解があってはいけないのは、さとる、ということは、人間の脳が持つ知性的なものによらない、ということです。
すべて、というと山川草木、石ころのひとつまで、さとらしめなくてはならない。
石ころにどのように、人間のような知性のはたらきを求めるのですか。
石ころというと極端なようですが、人間のこの生身だって、細胞のひとつひとつは人間の脳が持つ知性をそれ単体では持っているわけではありません。
しかし、その生身の体においても人は悟ることができるのですから、いかに、その細胞のひとつひとつにまで、さとらしめるのか。
同様に石ころをどのようにさとらしめるのか。
このことを真に理解するには法界を真に理解するしかない。
そのことを真に理解しないと、仏道における密教は本当にはわかりません。
そしてさらに進んでいかないと、真の世界の成り立ち、その大元である霊道は真に理解することはできません。
まあさらにその奥に神があるわけですが。
(神と神霊はまた違うものです。)
いきなりこんなことをいわれてもと言う声が聞こえてきそうですが。
あえてこういうことをいうのは、密教のもととなっているものは、霊道にあるということをきちんと認識しておかなければ、危ういことがあるからです。
さらに、霊道にあると認識していても、神ということをきちんと踏まえておかないと、大道における中庸を見失ってしまうからです。
そこに貫くものを真にとらえた上で、一歩一歩歩んでいかなければ、真に尊きことを見失ってしまう危険性が大であるからです。
ですから、仏道を一歩一歩歩みながらも、その仏の世界に閉じこもらずに、さらにもっと根本をめざして向かうことの意味を知ってもらいたいと思い、あえてこのようなことを書きました。












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